アマトゥクニ(=対馬海峡国)の高天原(=壱岐)に発祥した天皇家は、ヒナタ(=福岡県福岡市西区)、
ヤマトゥ(=福岡県田川地区)、ナンバ(=福岡県京都郡)へと遷居しつつも繁栄を続けていたが、一転、白村江の戦い(663)に大敗した九州倭国(ヤマトゥ)は、中国(当時の唐)に首都博多(太宰府)を占領され、一時的に属国状態となった。第38代天智は、中臣鎌足が発案した「この史上最悪の大国難を、九州倭国とは全く無関係の日本国が遥か昔から畿内にあったことにして乗り切る」策を採用/推進していたが、671年末に中国(唐)軍に処刑/暗殺された。翌672年、第38代天智大王の異父兄である大海人(=漢皇子)は壬申の乱を起こし、勝利して、飛鳥浄御原宮を奈良盆地に建て、第40代天武天皇として即位した。天武系天皇9代8名は約100年をかけて、国史編纂での神武東征の600年(=干支60年×10周)繰り上げ、九州地名の畿内への完全コピー、天皇家/皇族/有力豪族の北部九州から畿内への移住、神社や寺の九州から畿内への移築、等々を駆使し、中国や朝鮮などの近隣諸国だけでなく日本国民も含めて、極秘のうちに国家を九州から畿内に東遷させた。